第1回 アート(1)PDFはこちら
     日本画家・中島千波さん金属造形作家・平岩共代さん

第2回 アート(2)  PDFはこちら
     画家・熊田千佳慕さん(故人)、木版画家・林保次郎さん漫画家・望月三起也さん

第3回 技術・企業  PDFはこちら
      テレビの父・高柳健次郎さん(故人)、アツギ創業者・堀 禄助さん
      CSE創業者・児島 燁(あきら)さん

第4回 俳優・教育  PDFはこちら
      俳優・織本順吉さん教育評論家・阿部進さん

第5回 登山     PDFはこちら
      登山家・泉田清幸さん長谷川恒男さん(故人)

第6回 学究     PDFはこちら
      数学者・絹川正吉さん歴史家・神崎彰利さん

第7回 地域貢献  PDFはこちら
     横浜市元助役・廣瀬良一さん会社役員・藤木幸夫さん

中島千波さん

日本画家で東京芸術大学教授の中島千波(木材工芸50)は、中学校の担任の勧めで入学した。

「家具などの立体的な工業デザインを学ぶ学科ということは入学後に知りました」と笑う。マイペースな性格のせいか、授業の半分が実習という工業高校は「僕に合っていて楽しかった」。特に力学やデザイン、製図などが面白かったという。

卒業後は東京芸大の日本画科に進み、日本画家の父と同じ道を歩む。父にはよく、絵がデザイン的だと評されたそうだ。「確かに、画面を4分割し中心点を出してから構成を考えるなど、神工でデザインを学んだ影響はあると思います」

岩絵の具や墨など伝統的素材で新しい表現を追求し、「衆生」「形態」「眠」「空」などのシリーズで院展奨励賞や山種美術館賞展優秀賞などを受賞。宮尾登美子などの小説の挿絵でも知られる。「今思えば、神工のゆるやかで自主性を重んじる空気が、絵描きとして生きるための自立心を伸ぱしてくれました」

現在芸大で教壇に立つが、痛感するのはものづくりと手仕事の親密な関係。「技術がいくら進んでも、ものづくりには手仕事の部分が必ずある。その基礎技術は10代でしっかり身に付ける必要がある。神工のような実業高校の役割は、今後あらためて高まるのでは」

平岩共代さん

金属造形作家の平岩共代(工芸図案53)は、金属(メタル)工芸を国際レベルのアートとすべく活動する「メタルアーティスト」。海外での評価も高く、ニューヨークやドイツの美術館で永久収蔵される作品も多い。

母に「女性も職業を持つべき」と言われ入学したが、全校で男子約900人に対し女子約60人。女子が圧倒的に少ないため、体育はサヅカーや剣道、柔道まで男女混合だった。部活動は郷土研究部に所属し、民俗調査などに夢中で取り組んだ。

卒業後、東京芸大名誉教授の山下恒雄(図案29、故人)の下で美術学部美術教育専攻研究生として学ぶ。作家間の国際交流にも積極的で、昨年、奈良市で開かれた平城遷都1300年記念展「日本・中国・韓国 現代メタルアート展」では実行委員長を務めた。
文化庁の派遣で経験したニューヨーク生活をテーマに、金属と和紙を祖み合わせた「オーガニック・ハイブリッド」シリーズなど意欲的な創作を続ける。

熊田千佳慕さん

戦前は本名の「熊田五郎」でグラフィックデザイナーとして、戦後は花や昆虫を細密に描く挿絵画家・絵本作家として活躍した熊田千佳慕(図案15、故人)。地面すれすれの「虫の目線」で描いたことで有名だが、この技法は神工時代に生まれた。軍事教練の際腹ばいになったら目の前にアリやコオロギがいたのだ。

2007年に神奈川新聞で連載した「わが人生」でこう述懐する。「虫のことを知ろうと思ったら、虫の目の高さで見なけれぱいけない。それに気づかされた瞬間です」
半世紀後の1981年、「ファーブル昆虫記」(コーキ出販)がボローニャ国際絵本原画展で入選。以後広い支持を得る。

林 保次郎さん

3月の東日本大震災で木版画作家の林保次郎(図案26)は、満1歳で母を亡くした関東大震災を想起させられた。「生を大切にする、明るい世になってほしいです」

東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科に進むが、1943年学徒出陣。仙台陸軍飛行学校へ入隊し、10ヵ月の特訓で南太平洋戦線へ。「運よく生き延びて」、敗戦翌年に帰国。「神工で培ったレタリングや装飾の技を生かし」、百貨店宣伝部のアルバイトで自活した。

ディスプレー会社に勤務時代、「木版画の世界に『自分』を見つけ出せる気がして没頭するようになった」。横浜ランドマークタワー建殷をテーマにした「みなとみらいとかこと」と題する大作は、同タワー1階に展示されている。

望月三起也さん

白バイを操る元犯罪者が巨悪を倒す「ワイルド7」(69年連載開始)が爆発的な人気作となった漫画家の望月三起也(定時制建築44)。その「心の師匠」は「建築担当の篠崎義章先生」だ。

「曰光東照宮を見学した際、先生は早朝凍った華厳の滝に僕たちを連れていった。朝日が昇り、氷がポタポタ解け、大曝布になる一部始終を見せ、『建築の基本は自然。基本や原点を大事にしなさい』とおっしゃった」

卒業後、漫画家・吉田竜夫のアシスタントを経てデビュー。

「壁にぶつかるとあの言葉を思い出し、原点に返ったり後退したりする。すると晴れ間が見え、壁が低く見えます」

12月には実写映画「ワイルド7」が公開予定。中途半端になるのが嫌で今まで実写化を拒んできたが、「やっと納得いく映画が実現した」。同作は熱烈なファンが多く、期待を集めている。

高柳健次郎さん

ブラウン管による映像の受像に世界で初めて成功した「テレビの父」「高柳健次郎(故人)は1921年から3年余り神工の電気科教諭だった。テレビの研究を思い立ったのも在職中で、高柳はそのエピソードを神工「創立五十周年記念誌」への寄稿文で記している。

舞台は横浜の海岸通り。「店先のフランスの雑誌」で、「ラジオの四角な箱の上に額縁があり、その中で女の子が歌っている図」を見た。「表題に”Television”と書いてあった。私はこれだと思って、これを研究することに決心した」

翌春、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)に転任し、1926年「イ」の文字の受像に成功。戦後は日本ビクター(現・JVCケンウッド)で研究・開発を行い、現在の映像技術の基盤を築いた。

堀 禄助さん

ストッキングや靴下のメーカー、アツギ(海老名市)創業者の堀禄助(機械13、故人)は、故郷の村に大正初期、電気が通った衝撃から神工で技術を学ぶ。卒業後、教職に就くが、世の貧困をなくそうと実業界に転身した。

ストッキングヘの関心は、片倉製糸紡績(現・片倉工業)に在職中、米国に輸出された生糸でストッキングが作られていると知ってから。戦後、前身の厚木編職を設立し、ナイロンを利用して製造を開始。日本のストッキング業界をリードしていく。

小島 燁さん

情報通信技術のトータルサービスを手掛ける(株)シー・エス・イー(東京都渋谷区)創業者の小島燁(愛川分校染織41)は、3年生の夏休みが転機となった。海老名市の厚木編織(現・アツギ)を見学して感想文を書いたのが縁で、創業者の堀禄助から即刻入社を要請されたのだ。入社後は始業前の2時間、堀が勉強を教えてくれた。「『会議は立って、メモは頭に』という考えの方で、私もスケジュールを書かない習慣が付きました」

大学進学を機に退社。相模原市の米陸軍相模総合補給廠で大学在学中から10年間働いた。
「米陸軍の膨大な物資が世界のどこでどう保管されているか、テレックスでデータを電送し、統括する情報処理業務でした」ここでのアナリスト経験を生かし1971年に起業。認証システム「セキュアマトリクス」開発や、英国・ソフォス社のウイルス対策ソフトのアジアヘの晋及などで評価され、英国のエリザベス女王に謁見もしている。

織本順吉さん、窪田正孝さん、柳下 大さん

ベテラン俳優の織本順吉(電気31)は、3年生以降は学徒動員で電機メーカー工場に通った。
そんな時代でも、神工では時折「総見」と称し、生徒を映画鑑賞に連れて行った。その際に見た「姿三四郎」を級友が演劇用の脚本に書き直し、自分たちで演じたことがある。自身は三四郎の師匠役。動員先の工場で何度も上演したが、生活指導を担当する生徒監に「こんな時期にけしからん」とやめさせられた。「戦争が全てを支配した時代でした。でも神工で過ごし、一種の反骨精神が身につきました」

戦後就職すると、同僚でのち劇作家となる大橋喜一に、労働組合の文化活動の一つ「職場演劇」に誘われる。勤務後に川崎の「京浜演劇学校」に通うなど演劇活動を始めた直後、人員整理で解雇された。このとき仲聞が、プロの俳優になることを勧めてくれた。

「思いもよりませんでしたが、ほかに技術もないし、解雇され屈折していたし、それもいいかなあと」。1949年新協劇団入団、54年には岡田英次、西村晃らと劇団青俳を結成。以来舞台や映画、テレビで約2千本の作品に出演する。

このところ人気が急上昇中の若手俳優、窪田正孝(機械93)、柳下大(建設93)も同校出身だ。

阿部 進さん

「カバゴン」こと教育評論家の阿部進(機械36)は2年生のとき終戦。焼け跡にできた実習工場に、教員や友人と秋葉原で工作機械を買って設置したことが心に残る。

戦後は、県主催の高校演劇コンクール出場が忘れられない。「建築科が舞台装置、電気科が効果、図案科が衣装などを分担し、機械科の僕は役者です。海水と電極で明るさを自在に調整する照明装置などを作り、総合芸術賞をもらいました」。この経験で得た「物事は異なる力が集まって進む」という考えは自身の根っことなった。

卒業後、進学も就職もできずにいたとき、演劇部の顧問教論が小学校の産休教員代理の仕事を紹介してくれた。これが縁で教員になり、その傍ら周囲の都会っ子の姿を「現代子ども気質」「現代っ子採点法」につづってベストセラーに。「現代っ子」は自身の造語だ。

65年に退職し、「創造教育センター」を設立。科学実験や自然体験を取り入れた独自の教育を実践し、教育評論家としてマスコミで活躍する。「面白いと思ったものを子どもに伝えるのが僕の教育です」。現在は全国に出前授業に赴く一方、横浜市の放課後事業で学習的プログラムを担当。今も子どもたちの人気者であり、よき理解者だ。

泉田清幸さん

登山家の泉田清幸(建築52)は、2003年の工ベレスト登頂時に「KTAC」と書いた旗を広げた。神工山岳部の英語表記の頭文字だ。「神工山岳部を代表して登ったつもりだからです」

1年生の夏休み、山岳部OBが群馬県の万座に山小屋を建設する際に駆り出されたのが、神工最大の思い出という。「15曰間泊まり込み、砂利やセメント、砂を毎日30往復荷上げしました」

建築科で学んだ技術を生かし、22歳のとき「大工」になる。腕一本で工務店を渡り歩き、資金をためては海外に出かけた。いったんは登山から遠ざかったが、山小屋維持のため山岳部OBとの交流は継続。30代半ば、OB同士で酒を飲んだ翌朝、皆で丹沢に登ったのを機に登山を再開する。

海外ではモンブラン、マッターホルン、キリマンジャロなど「―人で登れて、富士山より高い山」に次々挑戦。「延長線上にエベレストがあった」

山岳部では部の運営も山行も生徒の自主性に任されていた。「自分の頭で考え行動し、すベての結果に責任を持つことを学んだ。自分の気持ちに忠実に生きてきたという点では、神工の校風『質実剛健』から、そう外れてはいないと思う」。山小屋は健在で、2013年に建設50周年を迎える。

長谷川恒男さん

山岳部ではないが長谷川恒男(定時制機械54、故人)も卒業生だ。1970年代にマッターホルン、アイガー、グランドジョラスのアルプス三大北壁の冬季単独登攀を世界で初めて成し遂げ、81年に南米・アコンカグア南壁を冬季単独初登筆。世界的クライマーとして知られた。

著書「北壁からのメッセージ」(1984年、民衆社)で、彼は高校について語っている。中学を卒栗し就職した長谷川は、将来に不安を感じるようになった。そんな頃丹沢に初登山した。「頂上へ辿りついたときの、満足感と解放感は、いままでに体験したことのない、すがすがしいもの」(同書)で、不意に「高校へ行こう」と思い立った。

神工で身についた「考え方の基本」が2つある―とも言及する。「かなめになるもの」は正確にやらなければならないということ、そして「大事なのは応用の訓練」であるということだ。「本質的な部分で勉強できたことに、感謝している」と記している。

卒業から23年後、パキスタンのウルタルⅡ峰で遭難死。東京都山岳連盟は主催する山岳耐久レースの優勝者に「長谷川恒男CUP」を贈っており、同レースは通称「ハセツネカップ」として親しまれている。

絹川正吉さん

数学者で、国際基督教大学(ICU)の元学長でもある絹川正吉(機械34)は、神工教師陣の質の高さを振り返る。

特に普通科目の先生方が優れており、私は数学の湯本登先生に大変素晴らしい教えを受けました。先生はポリオ(小児まひ)による障害がありながら、独学で敦員免許を取得された秀才です」。卒業後、東京都立大学工学部に進学するが、理学部に転部し数学を専攻。この進路変更に、湯本の影響の大きさが表れている。

ICUに職を得て3年後に米国の大学院に留学。博士号を取得し、数学者として歩み始める。

ICUでは8年間学長を務めた。学内の教育改革に精力的に取り組んだことで知られ、任期終了直前から5年間は文部科学省の「特色ある大学敦育支援プログラム」の実施委員長も務めた。日本の大学に多大な影響を与えた予算総額150億円を超える一大プロジェクトだ。

「数学の研究以外に、こうした大学行政にも携わったのは、実業高校である神工で育まれた実学の精神によるものと思います。神工は私の人生の通奏低音でした」

神崎彰利さん

歴史家で相模原市立博物館特別顧問の神崎彰利(電気37)は入学の翌月、横浜大空襲に遭う。生徒は登校後すぐに帰宅を命じられ、自身は東神奈川駅から横浜線に乗車。「その電車が小机駅に着くまでに横浜も校舎もすべて焼けました」

戦後は歴史への興昧が開かれた。「荒井(旧姓・矢島)正治先生と大木(同・大工原)光夫先生のおかげです。荒井先生には初めて民俗学を教わった。大木先生は、最新研究に基づいた『日本の歴史』(毎曰新聞社)を毎朝読んでくれた。いずれも皇国史観とは違う庶民の歴史で、大変な衝撃を受けました」

卒業後は、明治大学で江戸時代の古文書から庶民の歴史を明らかにする研究に取り組む。電気科とは畑違いの分野だが、「神工で学んだ独立独歩の精神を発揮して、正面からぶつかりました」。
やがて明治大学に勤務しながら、県史の執筆委員や、相模原、厚木、大和など県内6市の市史編さん委員を歴任する。相模原市立博物館の設立には準備段階から関わり、1995年の開館と同時に初代館長に就任した。

古文書を研究する際、文面のみならず、書かれた背景からも読み解く于法は理系出身ならでは。根がやはり理系なのだろう、息抜きは物理関係の本を読むことという。

廣瀬良一さん

横浜市の元助役で、「都市未来計画株式会社」の取締役・廣瀬良一(建築38)は、入庁以来横浜の公共建築や都市づくりに関わる。特にみなとみらい21(MM21)地区の開発事業では、市企画調整局長を務めた技監の田村明(故人)を実務面で支えた。田村は飛鳥田一雄市長時代、市に「六大事業」を提案して入庁し、その推進に当たった著名な都市プランナーだ。

「造船所に移転してもらい、前面の海を埋め立て、まちの基盤をつくりました。目的は、東京に依存しない名実ともに独立した都市にすること。首都機能の分散という国家的事業の側面もあった」。退官後、廣瀬はMM21関連の第三セクターに勤務し、みなとみらい線開業にも取り組んだ。

出身は町田市。県内の親戚宅に寄留する形で終戦の翌年、神奈川工業高校に入学した。校舎は空襲で焼失したままで、1年半ほど他校で「間借り」授業だった。

「まちづくりには苦難が山ほどある。諦めなかったのは神工で培った忍耐力のおかげ」。モットーは「人に誠意、自分には自信」「反省はせよ、後悔はするな」。MM21地区は今、「ミナト横浜」を代表するエリアの一つとして市民はもとより全国に親しまれている。

藤木幸夫さん

藤木企業(株)会長で横浜港運協会会長の藤木幸夫(機械34)が育ったのは戦争の真っただ中。国を挙げて工業が推進され、神工には秀才が集まった。

「小学校の先生に『君の成績では不可能』と言われましたが、奇跡的に合格しました」。入学して長い廊下を歩いたときは、「聖域に来たように」緊張したという。

3年生のとき横浜大空襲により目前で校舎が焼け落ちた。「学校が燃えてしまった」と嘆く生徒に、ある先生が「学校は燃えていない、校舎が燃えたんだ」と一喝したことは忘れられない。

早稲田大学卒業後、父・藤木幸太郎の起こした、横浜港の港湾荷役会社である藤木企業に入社。高度経済成長期以降、荷役の主役が人力からコンテナヘ転換すると、経済や都市計画の専門家と連携し、時代に即した横浜港のあり方を模素した。

その際、土台となったのは、神工で養った理系的思考や工業技術的な方法論だ。「かつての港湾荷役は理屈のいらない義理人情の世界。そんな『情』の世界で育った私は、『理』の部分が弱かった。そこを神工が補ってくれました」

ことし5月、横浜港振興協会会長にも就任。横浜の象徴ともいえる横浜港のさらなる発展のため、決意を新たにしている。

=敬称略、( )内は専攻科と通算卒業期年創立100周年を迎えた県立神奈川工業高校。多彩な分野で活躍する卒業生を紹介する。