神工時報(復刻版)

2011年創立100周年記念

第12号 大正15年5月15日

   

1周年記念号 発刊の辞

ほんの小さい生命でも。それが全く新しい一の生命として出現するためには、多くの苦痛、努力、犠牲の払われるのが常である。更に出現の意義をつらぬいて、この小さい生命の成長を図るためにはより多くの忍耐と努力が必要でなければならない。

時報は全く新しい一の生命であった。大正14年6月、この小さい生命が出現するまでに、かなり多くの苦痛と、努力と、犠牲とが強要されたことはいうまでもない。たとえ母校神工学園は健全であっても、生れ出ずる迄の苦労は並大抵ではなく、生れ出でたか弱い嬰児を守り育てて、一人前に仕立で上るのは、更に更に大きな仕事であるに違いなかった。そしてそこに喜びもあれば楽しみもあり、期待も希望もあったのだ。

過去1ケ年、時報の歩んだ路はあまりに短く、そしてあまりに順調であった。小さい生命を慈しむ多くの温手の中に矗々(ちくちく)と延びて行ったのである。然し珍しいものに対する感銘と、かよわいものに対する憐れみとが、漸く失われんとしつつある、何もかもこれからの仕事であらう。然し珍しいものに対する感銘と、かよわいものに対する憐れみとが、漸(ようや)く失われんとしつつある。何もかもこらからの仕事であろう。然し乍ら、生るべくして生れた生命なら、打捨すておいでも立派に養はれてゆくに違いない。生るべからずして強いて生れ出た生命なら、あらん限りの手を尽しても、やがて滅びゆく生命であらう。もしこの理法にして誤またずとすれば、時報は愈々(いよいよ)ますます発展してゆく生命を持っているのである。何故ならば、そは生れるべくして生れ出で育りべくして育ちなおこれを一意専心守り育てんとする、無数の力強い援助があるからである。永い年月の間には、その形式や、見た眼の内容は変るかも知れない。然し、生るべくして生れ出でたものの生命は、母校神工学園の永久の繁栄と共に、永久の生命を保ち、ますます母校の繁栄を象徴して尽きないであろう。

 

最近の雑感 会長 秋山 岩吉

古い言葉ではあるが、実際光陰は矢の如しだ。月間神工時報の問題が起って、継続的に実行が出きるや否や気遣いつつ発刊してから、満1ケ年を迎えた。専ら佐藤幹事が編集の方を担当して、毎月決まった時期に印刷出きる様に運ぶには、かなり頭を使っている様だ。また出きあがったものを、約千人近い会員に毎月発送するには、大江幹事を初め隨分悩まされている。その他会員の移動調べや、会費徴収の事やらに、高橋、坂間、石崎各幹事等が分担して骨を折っている。我輩は時折これ等諸君が放課後まで居残りして、同窓会の事務を執っているのを見るとき、何とも言はれない感じが胸の奥から湧き出てくる。会員の多数には、恐らくこの苦心の実況は分るまい。随分無理解の不平を並べる人もいる様に聞くが、実際を知っている者から見れば如何にも気の毒である。それに付けても世の中には隠れたる努力家の如何に多数あるかがつくづく思われる。

過去1ケ年の間に死亡した会員が、10名程ある。殊に第1期の若林君、石塚君、小川君が相ついで逝ったのである。何れも前途に大なる望な持ち然かも着々奏効しつついたのに、何たる痛ましいことであろうか。老少不定生者必滅とはいいながら、真に人生の無常迅速を感じる。

本年の新入会員87名は、母校5ケ年制第1回の卒業生である。大正8、9年頃から、修業年限延長問題を持出して、やっとと当局の容(いれ)るところとなり、大正10年に初めて播いた種が、ここに実を結んだのである。学校は予備校的ではないから、その方に対しては何等便宜を与えていないが、それでも、本校卒業後、直ちに上級学校に入学出来た者が10名余りあった。その他就職希望のものは、時節柄にも拘らず、全部片付いた。これも先輩諸君の奮闘振りと援助が余程与えて力があったものと感じている。

本年の入学志願者は、募集入員120名に対して520名余りであった。これを中学方面に比較すれば非常の相違であった。以前はただ無茶苦茶に中学の門に向って蝟集したものだが、今日は一般的にようやく目覚めてきた感じがする。ただ気の毒な事には小学校の成績が首席または2、3番位のところで入学出きなかったのがかなりあった。それも決して出来が悪いのではない、これを見ても単に応募者数が増えたばかりでなく、その質も非常に良くなったことが分る。

母校本館は彼の震災の為大破損を受け、応急修繕によってともかく今日まできたがいよいよ改築工事が始まるので、4月23日より取り壊しにかかった。ああ4月23日創立以来15年間住み馴れたあの鰻の様に長い校舎が無心の職人の手によって見る間に段々浅ましい姿に変わって行くのである。建設の昔は憂々として威勢よく快感を覚るが、破壊の音、殊に釘の抜ける音は一種の哀調を帯びて、頭の心まで響く。在学中せっせと掃除していつも、奇麗にした諸君もこの光景を見たら恐らく感慨無量であろう。

辛抱力の単位 仙波 昇作

全ての人通じて辛抱の出来得る範囲或は程度がほぼ一定している様に思はれます。種々な話を緊張して聴取し得る時間が約30分内外、仕事に従事して働き得る時間が(その仕事の種類によって異りましょうが)約2時間内外と見てよかろう、読書に耽るにも書物の種類によっていろいろでしょうが2時間位、学生が気の向いた時に自習を連続し得る時間がどんなにながく見積っても2時間位でしょう。

それらの倦怠疲労は生理的にくる必然の現象で全人類を通じて同様に見られるのであります、しかしこの生理的に起る中にも気の持ち様によってはその現象が多少は変わるものであります、例えばある仕事に従事して生理的には疲労がきたにしても今少し息を入れ自らを励まして行いまた元気づいてその仕事を持続する事が出来るものであります。

世界は一つの大きな競争場であります、人々はお互いに日々競争をしているもので社会は社会と、民族は民族とその優劣を争い国家は国家と競争しています。それ等の競争になくてならぬものは種々ありましょうが、自己の有する辛抱力があずかって大なる勢力を有す事を忘れてはいけません。故に吾人が仕事に看手する前には(学生にありては学問を勉強する仕事)先ず自ら有する辛抱力の大さを計り、また同時に他の人達のこれに対する経験を参考として、それより僅かにても余分に自己の辛抱力の単位を定めその仕事にかかったならば、よしんば1日の差が即ち延びが僅少であってもながい間には大なる差を生じて絶大の勢力となり立派にその仕事が出来る事と思う、太い縄で一周り結ぶよりも細い繩で幾重にも結ぶ方が遥かに有効となり、また太い釘1本で留めるよりも同量の細い2、3本の釘で打ちつけた方がよく緊結し得るのである、であるから一時に辛抱力を大きくして短兵急に仕事に当るよりも単位を少しづつ大きくしながく従事する事が有終の善を得るにききめがある様に思う。

遠隔の地にある会員諸君ヘ 高橋 暢

「遠く離れて奮闘せられる諸君!」こう呼びかけるともう一昔となった南国長崎に真黒になってハンマーを振っていた頃の私の姿を心を思い浮かべずにはいられません。              

あの頃はよく働いた。一人も知り人のなかった私はただ働くより他に方法がなかったのです。心淋しい私でも日中濠々たる機械の中に立っては仕事そのものに追われて何一つ思う暇とてもありませんでしたが、12時頃迄の夜業を終えて疲れた身体をサンバンに乗せて油の様に静かな港内を家路につく時ばかりは、流石に孤独の淋しい自分の姿がしみじみいとほしいと思われました。

広くもないこの港を園で黙々たる山々を2つ3つと錨を下した商戦も、夜のしじまにひっそりかえって、どの船からか時折うち出される時報の哀鐘がかんかんと夜露を含んだ空の中へ消えてゆく。ピシャリピシャリと小波を分けてゆく私の舟に夜光虫と青い月のみがキラキラと輝くばかり。私もいわねば船頭も歌わず、空も山も水もひしひしと身に迫ってくる。この時ほど故郷を横浜を友を思った事はなかった。

「帰りたいなあ」とどんなにか考えたことだったろう。旅に出てやがて一年、山よ町よ母校よ。ああどんなに変わった事だろう?……

こうした心持はきっと諸君の内の誰かも抱いていられる事でしょう。そうした思い出に私は母校とその周囲ついてお知らせするつもりで筆を起こしてみないのです。

忘れもしないあの大地震で一たまりもなく、諸君の横浜は焦士と化し、こうして早や3年間を過ごしてきたものの元の横浜になるのは15年末のことだ、いやいや20年だと生残った浴衣一枚のお互いが手を取り合って除燈の中に泣いた日からこの3年、復興復興復興するとも前にも増した横浜を土台から仕上げて見せると狂うばかりにして奮い立った市民の熱の力は実に大きなものでした。

焼亜鉛のバラックが間もなく木建築水嫡築に代り人の数賑やかさの程度はもうほとんど昔に変わらぬほどになりましたもの。復興は先ず橋からと云って立派な橋の出来ること出来ること。それと同時に学校の復興が大したものです。鉄筋コンクリートの大建築が続々と竣工されて行きます。

市区改正の結果、思わぬところに大道路が開け、電車が走る様子です。御存知の鉄道橋から二手に分れ、一つは東神奈川駅裏より左に折れで六角橋ヘ、一つは軽井沢へ出て浅間神社付近まで、市内電車も延長されるとか。それはもう間もないことのように聞いています。それがため本覚寺側のsの片側がすっかり切り広げられるとかいう話。

鉄道では電気機関車も漸く一人歩きが出来るようになり、横須賀行きの異様な姿は路行く人々の足を止めます。一方、2、3年前から懸案の東京横浜電鉄もとうとう去る2に開通式を挙げ神奈川を起点とし高島山を隧道で抜け、反町、新太田町、白楽、菊名、綱島温泉などなど、マラソンでも走りなれたあのコースに並行して目黒まで高速度の電車が学校の直裏を走るのです。母校もついに改築の運びとなりました。お互いに磨いて磨いて磨きぬいた、あの長い廊下の本館が一日一日と屋根が剥がれ、床がめくられて変わり果てた姿になってゆきます。その残骸に降り注ぐ小雨の音を聞いていると知らずに胸がこみあげてくる哀愁を覚えさせられます。

工場の隅で鳥ロを引いたり、標本室から英語が洩れたり仮教室の何とない忙しさに落ちつかぬ日を送っている。しかしこれもこの夏を過ごせば、やがて新秋の青空高く2階建ての楚楚たる本館が竣工されるはずです。

隣の町、接村は近く市に編入、大横浜建設の由。何としても目に廻る様な活動振です。運動場立って周囲をの眺むれば見慣れたはずの瞳にも今更の驚異を感ぜずにはいられません。ここ1、2年の郊外発展は実に筆舌のほかです。丘と言わず田といわず、ぎっしり住宅が建ち並んで、二ッ谷の項番も転じて母校の門衛然とコンクリート建てで厳然とおさまったのも勢いの然らしむるところでしょう。

(以下次号)

祝詞 関根庄太郎

ここに謹んで神工時報一周年記念号の刊行をお喜び申し上げます。わが時報は兄等ご承知の通り昨年6月に創刊され、ここに1周年を迎えたのであります。そしで恙(つつが)なく記念号発刊の運びに至り、今後も無窮の進歩発達を告げる現状にあることは真に慶賀すべきことで、これには一に関係者諸兄の努力の賜であると信じます。

学校同窓会の一部の事業として、これだけの雑誌を月刊で出してゆくということは他で想像するような容易なものではありません。がそう大した暗流障害もなく、ここまで漕ぎ着けてこられたのは、諸兄の協力精神の発露による結果ではないでしょうか。投稿者も編集者も発送に関わる、時報紙上において満一歳となり、根底が築かれたのです。やがて時報紙の尊い経験は、やがて時報紙の充実発展に唯一寄与するところのものになると思います。

記念号刊行に際し、掛りの方から「何か書け」とのお言葉を頂きましたが、筆不精であるばかりでなく、平常時報には縁がなく、時折発送のお手伝いをする位の者ですから、別に申し上げることもなくて甚だ失礼。以上、神工時報一周年記念祝詞の一言を賀せる所以であるます。(5月3日、於事務室)

よしなしごと 編集子

 

一周年記念号であってみれば、編集者として何か一言なかるばからざるわけであるが、さて筆を取ってみると、兎に手前味噌が出たがったり、ひとりよがりの与太が飛び出したりして、思うに任せぬ筆の運び、ただ「よりなしごと」という題の下に、よしなき繰り言の少々を、述べさせて貰うことにする。

「他人様、の出来ることならば、自分にだって出来ないことはないであろう」これが編集いうかなり小面倒らしい仕事を引き受けた時の私の考え。そして、「もし出来なかったら早速逃げ出してしますこと」これがその次に出た考え。勿論、千の悪意も万野非難も覚悟の上の仕事である。櫓の操り方も知らなければ、舵の取りようも心得ぬ船頭が、1500の船客を満載した、小山の如き大船の水先案内として、大海に乗り出した。大様とか無謀とかいう形容詞はこの場合はまらない。少し奇狂な言葉だが、きちがい仕事というのが一番適当しているようだ。引き受けた私も図々しいには違いないが、やらせるほうも随分思い切ったものだ。

初めて時報が世に出たのは、対象14年6月だ。内容も外観もお世話にならない程貧弱なもの、2月、3月と経つ中に、だんだんと上手になり早くもなって、どうやらこうやら今日まで押し廻してきた。宛然貧乏世帯のわりくりだ。その間、「愛すればこそ」のお小言も幾度か頂戴した。

活字の誤植や仮名使いの誤りを発見して、偉丈高に非難の罵詈を浴びせてくれたひともある。無音の冷笑や嘲笑いを送ってくれた人もあるかもしれない。編集者自身でさえ、不満だらけな出来栄えなのだから、第三者としては、堪らなく不甲斐なく思われるのが寧ろ当然であろう。

この時報をみて。「工業も近頃仲仲明けてきたね」ともいってくれた。「毎月毎月の編集は大変ではありませんね」と同情してくれた。「時報がくるのが待ち遠しい」と嬉しい督促もしてくれた。それからまた、掲載した記事に対して、劇しい反感や批評をも寄せられた。さらに発送や会員名簿の誤謬まで、その非難を私のところへ持ってきた。私はこれらの応接に微笑したり、苦笑したり、そうかと励ませられたり、嫌になったりして、兎に角無事に、――ただ無事にほんの命がつながってきたという程度の――今日まで時報のお守りをしてきたのである。そしてそれ以外には何もしていない。

私は今、如何にしたら最も能率よく、最も立派の編集ができるかを考えている。そしてまた恒久性誇るべき本紙の性質上、現在のような編集方法は、早晩何とか改良せねばならないものと信じている。一片の辞令によって左右さるべき一個の人間、そうではなく兎も角変化の多い、たった一個の人間を基礎としての編集はあやうい。それに個人の能力からいっても、私は決してその器ではなかった。

愚痴やら、泣き言やら、与太やら、全くよしもないことを並べ立ててしまったが。要するに私は同人諸君のご期待に背いて、貴重な編集を浪費した罪を深くお詫びしたい。でせめて、「ぜひ時報の編集をやってみたい」という篤志家か、多くの人の観て以て適任とする人材を得るまで、自ら駑馬(どば)に鞭打ってその任だけは果たしたいと思う。幸い諸君の御同情ご鞭撻を祈る。

(大正15年5月3日)