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神工時報(復刻版) |
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2011年創立100周年 |
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第36号 昭和31年7月16日 |
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主張 生徒総会に思う 去る6月13日の生徒総会で、本年度生徒会予算案は「全面修正」に決定した。 では「全面修正」と決定した理由はどこにあるのか。 クラブの代表者会議を何度も開いて、各クラブの言い分を聞いたから良い予算が出来るとは限らないが、クラブ予算案の決定過程において、委員会編成後に、各クラブには通知がなかったことは明らかに手落ちである。委員会は生徒議会を通じて各ホームに発表した予算かもしれないが、それでは不徹底なのだ。今後はホーム・ルームの時間が自由に生徒会活動に使えなくなることを考えれば、生徒議会も一考を要する。加えて、予算編成委員長の態度を見ると、予算委員は確たる信念を持って予算を編成したかどうか疑わしい。ワンマンになっては困るが、自分達の出したものが、承認されないときは総辞職する位の信念と責任を持って予算編成に当ることが好ましい。 しかし、一般委員の方にも責任はある。総会の討議状態を見ると編成過程に関する質問を除けば、各部の予算が多いとか、少ないとかという意見が大部分であった。 もちろん、予算案に不備はあるが、細かい点は諸君の選出した生徒議員や役員によって、相当に審議されてきたのである。予算編成委員も人間である以上完全な予算を作ることは不可能である。それに近いものを作るために、可成の努力はしたのである。 「全面修正」案が可決に至った時、ハッキリした理由なしに、ヤジにつられ、付和雷同的に全面修正案に賛成してはいまいか。もし、ハッキリした理由があって賛成したなら、7月4日に開かれた臨時生徒総会において、たいした修正もされていない修正予算案に何故意義がなかったのか。 確かに今度は生徒総会に提出する前に手落ちはなかったようだが、6月13日の総会の状態を見ると予算案自身に多くの不備があったようだ。にもかかわらず、少しの修正によって承認されたのはどういうわけか判断できない。 これで31年度の生徒会予算は一応の結果をみたものの、一度「全面修正」となった原因は、予算編成委員の不手際とともに、付和雷同的にことを判断したとしか思われぬ一般会員諸君も責められるべきではないだろうか。 (昭和31年7月16日発行) 波乱を呼んだ予算案 臨時生徒総会にて決定 本年度予算決定に対する生徒会総会は2回開かれたが、会場での会員の態度たるや見られたものではなかった。1回目においては一部生徒のヤジのため全体が動揺され、わけもわからず反対なし、2回目には早く帰りたい一心から何の反対もでず、わずか数分間で決定された。ほっと一息ついたのは予算編成委員会だけではなかっただろうか。可決された予算案は前回否決されたものと大差なく、修正された所に努力がみられないが、これが簡単に可決されるようでは神工も「ヤキ」が回ったようだ。。 昭和31年度決定予算 待ちに待たれた生徒予算が、去る7月3日開かれた臨時生徒総会において承認され、4月28日第一回定例生徒議会にて予算編成委員選出後実に2か月ぶりで決定された。予算がこのように遅れたことは例年にないことだろう。だが、決定までの経過をたどってその原因を突き止めてみよう。 ご承知のごとく神工時報第35号のトップに掲載された本年度各部の予算請求額が約120万円。それに対して予算額は70万円と、50万円程の開きがあったが、予算委員がいかに配分し、予算範囲でとどめるか興味あと期待がかけられた。5月末には早くも臨時生徒議会にて発表、10日を経た6月10日には生徒議員間で約3時間、午後5時過ぎまで論争のあげく修正。 当日修正の内容は書記局、文化部予算が減らされ、野球部等運動部6クラブに対して各々千円以上の繰り上げがあった。続く13日には、定例生徒総会が開かれ、予算案が上程されたが、水泳、剣道、バトミントン、ラグビー、新聞などの各部より不満が述べられ、また予算が偏っているとのことから、野球部、美術部間で論争がなされ、一次緊迫した空気も見られた。 結局予算案再審議が出され採決の結果、動議に賛成280、反対258、保留96票を以って、再審議に付されるという重大な事態に陥った。執行委員が協議の結果、時間の超過を理由に後日再会の旨話があり、大混乱を招いた総会の幕を閉じたのであった。 7月3日には午後3時より臨時生徒総会が開催されたが、放課後のことで生徒側の関心が全然なく、わずか15分後簡単に修正案を承認、ここに曲折を経た予算議も一段落ついたのであった。 神工生今昔 岸田 林太郎 先日、成分部の編集子が、神工生の今昔について書いてくれと言ってきた。私は本校に来てまだ15、6年きり経ておらず、本校40年の歴史から見ると、約その3分の1の期間を奉職したに過ぎないから、ほんとの意味で神工生の今昔を語る資格があるかどうか疑問だが、折角の御依頼だから。私の見た神工生の今昔という意味で、気のついたことをお話してみよう。 私の専攻が建築だから特にそう感ずるのかもしれないが、人の住居は、そこに住む人の心を大きく支配するように思う。神工生の今昔も、戦前の校舎、戦前の校舎、戦後御校舎、そして今建ちつつある校舎を頭に想いうかべると、大体そこに現わされているような気がする。 戦前の校舎は、木造であったけれども、いかにもガッシリとした建物で、伝統的な由緒ある学校らしい落ち着きをもっていた。正面から玄関までの植え込み、本館、講堂、そして整然と並んだ各科の工場、校庭の周囲に茂る桜を老樹、それらが醸し出す雰囲気は当時の神工生を象徴するように思える。 戦後、私達が由緒深い校舎を失ってからはあちこちの建物を借りて、やっとの思いで授業を続けたのであるが、私が上級生を引き具して身を寄せた鶴見分校の如きは、今考えると、全く悲惨そのものであった。雪の降る日建具のない教室へは、膚を刺すような風と一緒に雪が舞い込んできた。当時の生徒諸君を瞼に浮かべると、その破れはてた校舎が二重写しになって思いだされるのである。 現在、本校は素晴らしい近代建築で着々復興しつつある。しかし、今のところ、出来たのは各専門教科の実験室実習室だけであって、戦後急造したバラックと併用して漸く糊塗している状態で、近代的な形で立ち直りつつあるが、未だ戦後の荒廃から抜けきっておらず、雑然として落ち着きのないかんじである。神工生の現状も、この校舎と一脈通ずるものがあるのではなかろうか。 このようにして、戦前、戦後、現在と3つの時期に画して神工生を見ると、一番気の毒なのは戦後の諸君である。学校があちこち間借りをして歩いていた当時の諸君である。その頃の生徒がよかったのか悪かったのと批評することは、私には到底できない。それに総ての環境の然らしめたところであるからである。その頃卒業した諸君は卒業後クラス会を開くことも少ないようであるが、無理もないことである。 これに比べると、戦前の生徒も恵まれていたし、現在の生徒も恵まれていると思う。神工生の今昔を語ろうとするとき、最先に私の心を痛ましめるのは、一番恵まれなかった時代の諸君のことである。 戦前の神工生というと、私の頭にすぐ、質実剛健という言葉が浮かびあがってくる。軍国主義華やかな時代だったから、質実剛健という言葉はどこの学校でも盛んに唱えられていたが、そうした中にあっても本校生は特に、そういった気風に富んでいたようである。 今でも、当時の卒業生は、潤達でザックバランな磊楽な人が多い。然しその半面欠点がないでもない。それは質実剛健と表裏のことかもしれないが、自我が強いということである。猪武者のように、自ら省みて直くんば千万人といえども吾往かんという元気はいいのだが、自信が強すぎて人の言うことが耳に入らず、謙虚に人の言葉に耳を傾ける余裕のないには困りものである。 当時、建築科の学級主任をしていた私もヤンチャ共のいたずらに随分てこずったものである。然し、当時私をてこずらしたて手合いが、案外卒業後立派な人になっているし、学校のことを忘れずにいてくれることを思うと、長所短所を超越して、生活力の旺盛であるという意味でいいことかもしれない。 いたずらもよくしたが、勉強もよくしたようだ。いつだったか横華国大の前身である横浜高校での建築科へ一度に6人入学して高工の先生を驚かせたクラスもあった位である。それらの生徒は学校ではいたずらをしていたが。家では猛烈に勉強していたらしい。 これに比べると、今の生徒は大分大人になったような気がする。もっとも昔の生徒は12歳ないし17歳であり、今の生徒は15歳ないし18歳だから、実際年齢的に大人であるわけだが、それだけでなく、考えが大人になっている。昔のようないたずら坊主が少なくなって、物事を思慮深く分別するようになっている。大変いいことだが、その反面、考えが余りにも現実的で夢がなさすぎるのではなかろうか。余り利口すぎはしないだろうか。せせこましくはないだろうか。 先生方の講義も、昔よりずっと程度が高くなっているようだし、設備も昔以上になりつつあり、生徒諸君も割合良く勉強しているようだから、私はいささかも学力低下を憂えないがそれだけに、近代的な立派な校舎の中で窒息しないようにしてもらいたいと思うのである。 普通高校の生徒は大学進学のために、やたら青春を格子なき牢獄に呻吟(しんぎん)しているが、本校の生徒諸君は、学校本来の線に沿って、若人らしく溌溂とやってもらいたいものである。神工生の今昔を語ったことになるかどうかわからないが、これで責をふさぐ。 (建築科教師) (昭和31年7月16日)
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